赤い、紅い夕日に照らされながら、その男はやってきた。 旅行者にしてはろくな荷物も持っていない――そもそも観光地どころか過疎の進む山村でしかないこの村に旅行者など訪れるはずも無いが――男は、村の入り口に佇む一人の幼い少女の姿を見つけ、足を止める。 少女もまたすぐに男に気がつき、俯かせていた顔を上げた。淡い金色の髪がふわりと揺れて幼い頬にかかる。蒼い瞳が興味深そうに男を見上げていた。村人以外の人間など見たことも無いのだろう。ややも怯えを滲ませながら、男の姿をじっと見つめている。 ――美しい少女、だった。まだ年のころは6、7ばかりと幼いが、目鼻立ちのバランスもふっくらとした頬のラインも柔らかそうな小さな唇も、ほんの僅かな狂いで台無しになってしまいそうなそんな危ういバランスの上で成り立っている。白いワンピースを纏う肢体も長く伸びた髪もまた色彩は淡く、故に、だんだんと昏く染まり逝く夕日に照らされて。今にも消え入りそうなそんな風情を、表していた。 「……キミは、この村の人、かな?」 「っ!?ぁ……」 びくりと、少女の肩が震える。それまで心のうちの過半数を占めていた好奇心は、躊躇いがちにかけられた男の声で一気に雲散霧消してしまう。 怯えたように一歩後ずさる少女に、男はゆらりと微笑みかけた。警戒心を解こうとするかのように、すい、としゃがみ込み視線を合わせて。 「ああ、怖がらないで。僕は……まあこういうことをいう奴が怪しくないはずはないんだけど、怪しいものじゃないよ。デリーに行きたかったんだけど道に迷ってしまってね?日も暮れてきたし、困っていたんだ。お嬢さん、この村にどこか泊まれるような場所はないかな?ああ、別に雨露を凌げればどこだっていいんだけれど」 ゆったりとした穏やかな口調、笑みこそ浮かべているものの心底困ったようなそんな表情に。今にも駆け出してしまいそうだった少女の足が止まった。 「……こまってる、の……?」 恐る恐る男を……どこか仄昏さを感じさせる笑みを見上げる。不吉ささえ感じさせるはずのソレを、なんに由来するものなのかも気付かないまま、男が頷くのを見れば……こちらも頷きを返し。 「……お父さんとお母さんに……頼んでみる……その、そと、危ないから……」 この辺りは日が暮れれば獣が出るのだ。男の身を案じての行為、なのだろう。かなり襤褸けた格子状の門の閂をぎこちなく外し、“招き入れる”。 その瞬間、男の笑みの質が変わり果てる。いや、変わった、わけではなく……その奥に隠されていたものが、溢れ出して来たのだ。 何とも愉しそうに薄い唇の端を吊り上げ、無造作に門を押し、少女に歩み寄る。その動作自体は、先ほどとは変わらないゆったりとしたものだ。けれども少女は逃げられなかった。 少女は気付いてしまったのだ。男の笑みに歪む唇、そこからちらりと覗く尖った犬歯。人間にあるまじき“証”を。そして、ソレを、自分が村に招きいれてしまった、ことを。故に、怯えをありありと表情に表し一歩二歩と後ずさりながらも。細い腕を男に突き出し、指先にゆらりと纏わせた小さな水の塊を、何の容赦も無く撃ちだしてゆく。 「……その年でこれだけ出来るのは大したモノだけれど。この僕……僕に疵を負わせるにはほんの少し足りない……残念だったねぇ?」 並の人間が食らえば昏倒どころではすまない攻撃を幾度も幾度も浴びながら、男は嘲った。嘲いながらも、やはり無造作に手を伸ばし震える少女を、掴まえる。ぞっとするような冷たい腕は、迷うことなく少女の矮躯を引き寄せて。 「い……やぁっ!?!ぁ……っ!!?」 息が詰まりそうな息苦しさを感じて身を捩るけれどももう遅い。しっかりと抱え込まれてしまって、同じ年頃の子供たちの中でも特に体力の無い身では最早振りほどくこともできず。 「……さあ、行こうか、mademoiselle……Soyez ce soir la meilleure nuit」 なんとも愉しげな謳うような呟きとともに。男は、少女を抱いたまま歩みを進める。 道の向こうから、誰かが駆けてきていた。小柄な、少女よりもわずかに背が高い程度の、少年。それは、少女のひとつ年上の兄、だった。帰りが遅いので心配して探しに来たのだろう。妹を抱える見知らぬ男の姿に顔色を青ざめさせながら、それでも真っ直ぐに、駆け寄っていって。 「クローイっ!!……妹を……クローイを離せっ!!」 「お兄ちゃんっ……来ちゃ……だめっ!?」 クローイと呼ばれた少女の悲痛な叫びも虚しく、少年は悠然と構えた男へと飛び掛ってゆき。 次の瞬間、嫌な音が響いた。 長身の男よりも高い位置に持ってこられた少年の顔、その口元から、鮮やかな紅の液体が溢れ滴って、クローイの頬を濡らす。その体を支えるのは……その薄い胸を容赦なく紙の様に貫いた、男の腕。心臓をわずかに外れたその腕は、それでも違えることなく肺を射抜き、胸甲内に溢れた血は、呼吸、という行為を少年から奪い去っていた。 結果、もたらされるのは……意識を失うことも悲鳴を上げることもできない、ただただ苦痛に満ちた緩慢な死と絶望。 少年が息苦しさに胸を喉を掻き毟り、咳き込む度に尋常ではない量の血が吹き散らされ男とクローイを赤く染めて行く。 その光景を、男は愉悦に満ちた瞳で、クローイは表情を凍りつかせて、見つめていて。 ……どれだけの時間が過ぎたのだろう。やがて少年の体がぐったりと脱力し細かい痙攣を繰り返す様になって。そうなって漸く、男は少年の胸から腕を引き抜いた。引き抜かれる瞬間びくりと体が震え、最後の命の欠片が流れ出していく……その少年の首筋に、無造作に牙を突き立てられる。 少女の息を呑む音は、ごくり、という、かすかに吸い上げられた少年の血を嚥下する音で掻き消された。 ゆらりと揺らめく、最後の一滴まで血を失った筈の小さな体。どろりと濁った青い瞳が、少女を見つめる。呆けたように開かれた唇の隙間から覗く鋭い牙が、最早少年がヒトではありえない事を示していた。 それを認識した瞬間。少女の精神はあっさりと限界を迎え、その細い喉から血を吐くような絶叫が迸った。 それは、ひっそりと暮らす吸血鬼狩人たちの末裔を襲う、惨劇の始まり。 それからのことは、クローイにとってはひどく曖昧でおぼろげで断片的、それでも……忘れることなど決して赦されない出来事で……。 “吸血鬼”と化した兄が、男の命じるままに、クローイの悲鳴で各々の家から飛び出して来た村人たちに襲い掛かる。 狩人の末裔、とはいえ、その大半は只人と変わらぬ彼らを、男も女も老人も子供も区別無く血の渇きに任せ引き裂き、食らう。 悲鳴を上げ逃げ惑う村人、武器を手に戦おうとする村人。唯の一人も逃すことなく殺戮に酔いしれる“兄であったモノ”の胸に突き立つ白木の杭。 ざらりと崩れ去さる兄の向こうには顔を青ざめさせた父と母の姿があった。戦うことを忘れたこの村の中で、いまだ狩人を続けているただ二人の姿。 表情を失せさせ身構える両親、愉しげな笑みを浮かべたままクローイを抱いたままそれと対峙する男。それをただ呆然と、コワレタように見つめる少女。 やがて始まる戦いは、ある種一方的なもの。攻勢に回る両親、防戦一方にも見える男。それでも、その実戦いの流れを掴んでいるのは、余計なお荷物を抱え唯一人で戦っているはずの男であった。 流れるような身のこなしで二人がかりの猛攻をいなし舞うように身をかわし。どうしようもなければ腕に抱いたクローイをその前に曝け出す。 娘、を盾とする行為にすらも、父の、母の攻撃の手は止まらない、止まりはしないが……動揺は滲む。微かに揺らぐ振るわれる剣をあっさりと掴み止めて、男は嘲った。「こんなものか」と小さく呟き、膂力に任せて掴んだ剣を逆に振り回し、父を、放り出す。その先にいたのは術を組み上げようとしていた母だ。驚愕の顔はすぐに父の体で覆い隠され、二人はもつれ合う様に地面に転がり…… そして、暫しの空白。気が付けば……クローイは家にいた。居間の、いつも父が腰掛けていたロッキングチェアに、いつもしていたように“膝”の上に腰掛け、揺られている。 夢だったのだろうかと、一瞬、そう思ってしまった。もうすぐ、母が食事の支度を終えて呼びにくる。そうすればいつも訓練でお腹を空かせている兄が喜び勇んで飛び出してゆき、自分を抱いた父が、その後を追う。いつもの光景が繰り広げられると、思ってしまった。 ああ、なんだか粘ついたモノがこびりついて気持ち悪い……晩御飯の前に、お風呂に入らなきゃ…… けれども。 目を開けば、飛び込んでくるのは父と母の姿。いかつい釘で、両手を両足を壁に打ち付けられ、その胸を白木の杭で打ち抜かれている。 項垂れたその顔はすっかり血の気も失せ表情も何もかも流れ出して、まるで人形の様にも見えた。 「……死んじゃったね、クロエ……全部全部……死んでしまったよ?」 謳うように節をつけられた言葉。クロエ、という呼びかけが自分に対してのモノだと気づくのに、わずかに時間がかかる。 死んでしまった……誰が……?お父さんとお母さんと、お兄ちゃん……お隣のおじさんやおばさん、幼馴染のコニー、ダニー、アビー……皆?死んだ、いや、殺された……。 千々に思考を乱れさせながら、呆けたように声のほうを見上げれば。そこにあるのは見慣れないはずの顔。 長く垂れた髪は元は白銀なのだろう、けれども今はべっとりと血に染まり。整った顔もやはり血に汚れながらも、愉しそうな笑みを浮かべ赤いモノをこびり付かせた牙をむき出しにしながら、哂っている。 兄に皆を殺させ、両親を殺した“吸血鬼”。いや、ソレを招き入れてしまったのは、自分自身だ。 そう、気付いてしまえば。衝撃を受けて脆くなった心はいともたやすく打ち砕かれてしまう。 「ぃ……やぁああぁあああああああああああああっ!?」 迸る悲鳴、もがき暴れる手足。それらはまるで蜘蛛の網に捕らえられた蝶のようにやんわりと押さえ込まれてしまって。 「可哀想なクロエ、一人ぼっちのクロエ……キミは、これからどんな風に、生きていくのかな?」 謳うような節回しのまま、愉しげに呟く。その問いかけに意味などないのか。すい、と血にぬれた指で幼い頤を持ち上げて。 「弱い君は何を憎めばいい?」 「っ……!?」 紡がれる男の言葉に、少女は思わずはっと息を呑んだ。行き場のない感情が、もぞりと蠢く。行き場が無いが故に、それはじりじりと体のうちから自身を焼き焦がしてゆき。けれども……次の男の言葉で、流れを作られたその想いは、止めることも出来ずに流れ出す。 「簡単なことさ。僕を憎めばいい……このJean=christophe=Malebrancheを、ね?そうして僕の事だけを考えて僕の事だけを想って……力をつけて捜して捜して捜して捜して……殺しにおいで」 「っ……ぁ……ぁぁああぁあああああああっ!?」 淡々と紡がれる“呪い”に、砕かれた少女の心はあっさりと絡めとられてしまう。涙も枯れ果てぼやけた瞳に、力が戻り、乾きかけた血に塗れた腕を差し伸ばし指先に水滴を集めて。 「今は、まだ早い。君の兄さんも、母さんも、父さんも……敵わなかったんだから……でも、10年先ならどうだろうね?“待っている”よ、クロエ……」 「ぁ……っ!?!?」 ジャン=クリストフ=マールブランシェと名乗った男は、戯れを纏わせた声音でそう言って、少女の腕を取った。そのままもがく矮躯を押さえつけ赤黒く染まったワンピースを肌蹴させて、露になった細い首筋に牙を埋める。 ずるりと吸い出されていく生命の欠片。思考も身体も容赦なく焼いていく灼熱感に、少女は小さく声を上げて。けれどもそれは一瞬の事。すぐに顔を上げたジャンは、血に塗れた口元を歪めて「約束の印だよ」と、囁いた。 そこからの事は、本当に曖昧にしか覚えていない。 翌日か、翌々日か。偶々か目的を持ってやってきた旅の神父の手により、ただの1噛みであったというのにぼやけさせられた思考のままロッキングチェアに腰掛け続けていた少女は保護された。 クロエ、と名乗った少女は、吸血痕を刻み付けられながらも“人”であると確認をされ教会に引き取られる事となり。 その後1年にわたりPTSDに苦しんだ挙句、神罰代行者としての道を歩む事を、決意した。 神への信仰を基にしたものでもなく 信念があるわけでもなく ただただ、Malebrancheへの憎悪を胸に刻みつけて ただただ、復讐に身を焦がし 第八世界を離れた異界“ラビリンスシティ”でやはりMalebrancheの名を持つ吸血鬼や、“新しい力”を持つ少女に出会うのは、また別のお話……。