題:『おかゆ』 作:江島一二三 (rap) 執筆時間:約90分 玄関のチャイムが鳴った。 見なくてもわかる。……というより、識っている。彼女だ。 彼女のすらりと伸びた指先が、チャイムから離れたのもわかる。 京雛のような美しい顔の彼女は、小首をかしげて、心配そうな瞳で、私の反応を待っているのだ。 「開いてるよ」 だから、私はそう答える。 彼女の眦(まなじり)は下がり、微笑を浮かべてドアノブに手をかける。 白を基調としたコートを翻らせ、その中に隠した綺麗な足をまず一歩、我が家に踏み入れるのだ。 そして、彼女はこう答える。 「もう、ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃない」 私は苦笑する。私が寝ていたら、彼女は部屋の前で待ちぼうけたのだろうか? 何よりも、彼女の返事が、予想通りだったことに、苦笑した。 ……いや、矢張り正確ではない。最初から識っていたのだから、予想とは違う。 これは予言なのか、予見なのか、それともデジャ・ヴというやつなのか。 「ただの風邪なのに、大袈裟だな」 彼女は私の部屋に入るなり、私の顔を見つめ、安堵しつつも、静かに布団に歩み寄るのだ。 私は彼女がそうするだろうと、半ば期待にも似た想いで彼女を見つめる。 しかして、彼女はそうした。 彼女は私の部屋に入るなり、私の顔を見つめ、安堵しつつも、静かに布団に歩み寄ってきた。 「ちゃんと食べてるの?」 「ちゃんと食べてるの?」 彼女の言葉を見越して、私は同時に台詞を発した。 驚く彼女。怪訝そうな表情を察して、私は慌ててフォローを入れる。 「……いや、そう言うと思ったからさ」 「意地悪」 彼女はそう言って、心配そうに私の頬を撫で、さする。 私は彼女を安心させようと、微笑む。 どちらからともなく、軽い接吻。彼女の柔らかい唇の感触は、どんな万病の薬よりも効く。 「おかゆ、作ってあげるね」 「ありがとう」 女性が台所に立つ姿を後ろから眺めるのは、なんだか妙にこそばゆく、嬉しいものだ。 この背中のむず痒さは、彼女が居て良かったと、心底痛感する味わいだ。 だが、台所から漂ってくる、鼻腔を刺激するおいしそうな匂いとは裏腹に、私は不安と絶望に苛まれる。 ――彼女はもうすぐ死ぬ。 私はそれを識っている。 彼女は私の目の前で倒れ、目を閉じ、動かなくなる。 冷たくなった彼女の身体の隣で、私はただ、哭いているのだ。 私はスプーンを曲げられるわけでも、裏返したカードの模様が当てられるわけでもない。 だが、彼女が作ったおかゆを私が食した後、彼女は死んでしまうのだ。 何故か、それだけは、私は断言出来る。 「おかゆ、できたよ」 病床の私を元気付けようと、彼女は精一杯微笑む。 その微笑が、嬉しくて、悲しくて。 私は複雑な表情でおかゆを手に取ると、ゆっくりと、匙で掬って食べはじめる。 ゆっくりと。ゆっくりと。 せめて少しでも、彼女と長く居られるように。 嗚呼、こんなにも幸せな逢瀬の時間が、このおかゆを食し終わったら、終焉を迎えてしまうだなんて! 「……泣いてるの?」 「嬉し泣きさ」 「もう、馬鹿」 彼女はそう言って、おかゆを食べ終えた私の頭をそっと抱きしめた。 ふくよかな彼女の胸の感触を楽しむ余韻すらなく、私の心は、ただただ、真っ黒に塗りつぶされていく。 私の大切な人は、もうすぐ死んでしまう。 時間を戻す事で、少しでも長く一緒に居られるのなら、私はそれを望み、願う。 だから時間を戻そう。戻せるだけ戻そう。2人の時間が、もう少し長くなるのなら。 時間を、戻そう。 玄関のチャイムが鳴った。 「開いてるよ」 「もう、ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃない」 「ただの風邪なのに、大袈裟だな」 「ちゃんと食べてるの?」 「ちゃんと食べてるの?」 「……いや、そう言うと思ったからさ」 「意地悪」 「おかゆ、作ってあげるね」 「ありがとう」 「おかゆ、できたよ」 「……泣いてるの?」 「嬉し泣きさ」 「もう、馬鹿」 玄関のチャイムが鳴った。 「開いてるよ」 玄関のチャイムが鳴った。 「開いてるよ」 玄関のチャイムが鳴った。 「開いてるよ」 玄関のチャイムが鳴った。 「開いてるよ」 玄関のチャイムが鳴った。 返事はとうの昔に無く、それでも私はドアを開ける。 鍵はかかっていない。それが彼の悪い癖だった。 開放的なあの人の部屋は、いつも友人達で賑わっていたものだ。 私はコートを翻らせ、部屋を目指して歩いていく。 「もう、ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃない」 布団から、骨だけとなった彼が、上半身だけ出して出迎えてくれる。 もし骸骨に表情というものがあれば、まさしく笑顔と言って良かっただろう。 『ただの風邪なのに、大袈裟だな』 彼が生きていれば、きっとそう答えただろう。 私は彼の――とうに白骨化している――頬を撫で、さする。 しゃれこうべとも言われるそれをそっと支え、軽い接吻を交わす。 私は台所に立つ。 彼の為に、彼の為だけに、愛情のたっぷり篭ったおかゆを作るのだ。 時間を巻き戻しすぎたせいか、後半は彼の意識や記憶の混濁が顕著にみられた。 私の願いと想いの、ちょっとした副作用。 私と彼の意識が混ざり、溶けあっていたのだとするなら、それはなんと幸せな事だろうか。 「おかゆ、できたよ」 私は、彼の為に微笑む。 どれだけ手を尽くしても、どれだけ時間を巻き戻しても、何をどうしようとも、急死してしまう彼。 そんな彼の為に、私は時間を巻き戻して、巻き戻して、巻き戻し続けた。 彼と少しでも長く一緒に居られるのであれば、それで構わなかった。 私はおかゆを匙で掬うと、彼の口元へ運んだ。 彼の口に運ばれたおかゆは、そのまま下へこぼれた。 それでも私は、ゆっくりと、ゆっくりと、彼におかゆを食べさせていく。 「……泣いてるの?」 そう尋ねると、彼が応えた気がした。 『嬉し泣きさ』 「もう、馬鹿」 私はそう言って、おかゆを食べ終えた彼の頭をそっと抱きしめた。 しかし、私は、疲れてしまった。彼のいない世界に、未練は無い。 私の心は、ただただ、真っ黒に塗りつぶされていく。 私は彼の目の前で横になり、目を閉じた。 彼女は私の目の前で倒れ、目を閉じた。 やがて私は動くのを止めた。 やがて彼女は動かなくなった。 冷たくなった彼女の身体の隣で、私はただ、哭いている。 時間を戻す事で、少しでも長く一緒に居られるのなら、私はそれを望み、願う。 だから時間を戻そう。戻せるだけ戻そう。2人の時間が、もう少し長くなるのなら。 時間を、戻そう。 玄関のチャイムが鳴った。 「開いてるよ」